120年以上の歴史を持つ
キリスト教精神に基づく男子学生寮です

同志会紹介新聞記事(東京新聞)

平成19年と少々古いのですが、東京新聞に同志会学生寮が紹介された記事があります。これを以下に紹介いたします。

 

人、街に生きる 東大学生寮・同志会②

 「手に来る業」全力で

(東京新聞夕刊一面 平成十九年三月十四日)(東京新聞より許可取得済)
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化学会社顧問の池田尊(七二)は東京大学のキリスト教学生寮「同志会」に一九五六年、入寮した。理事長名に「石館守三」とあるのを見て、医学部で指示する石館教授とは別人だと思った。
池田の知る石館はハンセン病や心臓病、がんなどの治療薬開発の輝かしい業績で知られた。医学部教授から初代薬学部長になり「法王」と呼ばれた実力者だった。
そのイメージとキリスト教の寮が結びつかなかった。石館(一九〇一―九六)は創設者阪井徳太郎の後を継ぎ、四六年から五十年近く、同志会の運営に力を注いだ。
金曜会の会合に来る石館は「信仰や人間関係の話ばかりで、大学とは全く違った」と池田。学生から「守ちゃん」と慕われたその姿は、自分の業績を誇ることがなかった阪井の姿勢に重なる。
池田は「先生は東大退官後も国立衛生試験所長や薬事審議会会長など要職を歴任されたが、同志会では神と人とに仕える謙虚な態度を貫かれた」という。
石館は、自分を信仰に導いた先輩の小西芳之助(一八九八―一九八〇)を終生、兄のように尊敬した。小西は四十九歳で銀行を辞め、牧師になることを決意した異色の人。その教えも、浄土宗に学んで主イエスの名を呼ぶことが行になるという独特のものだった。地元教会に受け入れられなかった小西のため、石館は自宅敷地を割き、高円寺東教会を設立させる。
「主イエスと呼びて励まん、今日もまた、手に来る業を。御国目指して」
小西は同志会の後輩たちに繰り返し説いた。公認会計士の金井浄(七二)はいまだに、この言葉に人生を導かれている。
就職した陶器メーカーで「お荷物」と呼ばれた部門に配属され、原価計算に問題があることに気付き、改革を提案した。しかし、「若造の出しゃばり」が受け入れられるはずもなく、反発した金井は独学で公認会計士や情報処理技術者の資格を取得した。
会社も今度は提案を入れ、お荷物はドル箱部門に変わる。三十代半ばで会社を辞め、公認会計士になり、日本で最初にコンピューターを導入した会計監査を始めた。
「手に来る業、つまり与えられた仕事を全力でやることが道を開いた」と金井は振り返る。
「私は学生時代も落第したが、サラリーマンも落第です」と苦笑する千代博史(七二)。電電公社(現NTT)入社後、主計部門などエリートコースを歩むが、広報部門でマスコミ対策を任され、記者とやりあって「はずれた」という。
五十代で関連会社に出向し退職。同志会会報に小西の教えについて多くの文章を著している。
「社会へ出て要領よく生きられなかった者の方が同志会にこだわり帰ってくるのかもしれない」
化学会社退職後、裁判所調停員を務める横田淳(六九)は、「当時、寮にいた多くの者が小西先生の言葉を座右の銘にしている」という。現在、同志会百年史の編さんを進めている。
(文中敬称略)

写真 上 創設者・阪井氏らの写真が飾られたチャペルで賛美歌を歌う(左から)磯野健太郎、横田、金井、千代、池田の皆さん
下 小西氏の言葉に導かれたと話す金井さん=台東区駒形で

 

人、街に生きる 東大学生寮・同志会③

 「小さき者」に寄り添う

(東京新聞夕刊一面 平成十九年三月十五日)(東京新聞より許可取得済)
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JR南武線を立川から川崎方向に向かうと、二つ目に「矢川」という小さな駅がある。駅の南にこんもりした森が見える。一八九一年、日本で最初に設立された知的障害者のための社会福祉施設「滝乃川学園」。東京大学のキリスト教学生寮「同志会」を一九七三年に出た河尾豊司(五八)は、ここで三十四年目の春を迎えた。
法学部入学は六八年。駒場寮に入った河尾はただちに東大紛争の渦中に巻き込まれる。
大学封鎖などの暴力と対決し民主的改革を目指すが、持ち前のひたむきさから疲れ切り、心を病んで入院した。
「安田講堂の封鎖解除の時も病院の中。体力も知力も失い、絶望のふちにいました」
三カ月の入院から立ち直り本郷に進学した河尾は、同志会の門をたたく。それまでの悩みからキリスト教への関心を強めていた。祈りや賛美歌に最初は戸惑ったが、やがて「生涯を社会奉仕にささげたい」という思いを強める。同志会と共通の宗教的背景を持つ滝乃川学園に飛び込んだ。
学園の創設者・石井亮一は同志会を設立した阪井徳太郎と同じ立教大学で学んだ。阪井はエリートの育成、石井は知的障害児の教育と、一見対照的な道を歩んだが、無二の親友で、阪井は学園を有形無形に支援し続けた。
「キリストの教えでは「小さき者」(弱者)に奉仕することが神に仕えることになる。二人は同じ目的のため役割を分担していたのではないでしょうか」
河尾は学園で、歴史に埋もれていた一人の女性に出会う。亮一の妻で第二代学園長の石井筆子だ。
筆子は、一八六一年、長崎県大村市に生まれ、いち早く欧州留学を経験。華族女学校の同僚だった津田梅子(津田塾大の創設者)らとともに近代女子教育を始めた。
最初の夫との間に生まれた知的障害の長女をはじめ三人の娘を亡くした。夫も三十代半ばで病死。長女を預けた石井亮一の理想に共鳴し再婚、学園の運営に心血を注いだ。
「筆子は障害児の教育こそ近代文明の核心であり、欠かせないものと自覚していた」という河尾。仲間とともに学園福祉文化室長として筆子の紹介に奔走した。
その努力は実を結び、昨年、筆子を主人公に二本の映画が誕生した。「鹿鳴館の華」とうたわれた美しい筆子を常盤貴子が演じる劇映画「筆子・その愛―天使のピアノ」は、自身も知的障害者の母である山田火砂子監督の作品。学園を舞台に多くの知的障害者が映画に登場し、生き生きと演技する。
宮崎信恵監督のドキュメンタリー「無名の人 石井筆子の生涯」は、吉永小百合が筆子の著作を朗読、平塚らいてうより十年早く男女平等を訴えた筆子を描く。
学園のチャペルには筆子が愛用したとされる、日本に最も早く伝来したピアノがある。
「ピアノの中心に描かれた二人の子を抱く天使の姿こそ、筆子そのものです」。河尾はそっとピアノに手を置いた。(文中敬称略)
写真 上 筆子愛用のピアノを前に話す河尾さん=国立市の滝乃川
下 知的障害者教育に心血を注いだ石井筆子さん
文・清水美和、写真・上 藤原進一 下・恩田則夫(いずれもカラー写真)

 

人、街に生きる 東大学生寮・同志会④

 企業でモラル追及

(東京新聞夕刊一面 平成十九年三月十七日)(東京新聞より許可取得済)
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日立製作所で社長、会長を十四年務め二年前に相談役になった金井務(七八)は東大のキリスト教学生寮「同志会」に命を救われた。大学三年のとき肺結核になり、高価な薬が手に入らず途方に暮れた。
「厚生省の先輩が薬の面倒を見てくれた。面識もないのに同志会の後輩というだけで助けてくれた」。同志会のつながりがなかったら、今日の金井は存在しなかったはずだ。
一九五八年、工学系大学院を卒業した金井は日立に入社する。入社二十三年で社長コースといわれる目立工場長を務め、トップに上り詰めた金井の会社人生は順風満帆そのものに見える。
社長になって感じたのは「会社の品格は所詮、社長の品格を超えられない」ということだ。
「会社を運営していく上で、天の道を実現する誠と、反対意見をいれる寛容さは欠かせない。経営者にも宗教的素養は必要で、それを同志会で学んだと思う」
金井がトップに立ったのはバブル崩壊が始まった直後で、目立の経営は困難の連続だった。
「米GE会長だったウェルチから、ウソでもリストラをやると言えば株価が上がると言われた。しかし、従業員も株主と同じ会社のステークホルダー(利益共有者)。リストラそのものは否定しないが、再就職先を考える愛が必要だ」
リストラや不採算部門の切り捨てなど、情け容赦のない経営がもてはやされるグローバル競争の時代。金井の経営観は際立つ。
「日立は、日本の社会が必要とする事業なら苦しくてもやる。企業は海外に行けるが、従業員はそうはいかない。若い人が将来に希望を託す会社でなければならない」
六二年卒寮の町田睿(六九)は当時、預金量日本一の富士銀行(現みずほ銀行)に入行した。
しかし、秋田で高校教師だった父が「カネは汚い。それを扱う職業に就くとは」と残念がった言葉が「頭を離れなかった」という。
下町の支店に配属され、債務者が自らに生命保険をかけ自殺するような現実を知り「おやじの言うことは正しい」と思ったことも。
「二十年ぐらい悩む日々が続いた」。しかし、従業員組合の専従役員を経験し、初めて「みんなのために働く」生きがいを感じた。
その後、業務や人事部を経て、総合企画部長として本部各部を統括する立場になったころ、世はパブル経済が花盛りだった。
「収益至上では危ない。質を重視する経営に戻そう」。転換を呼び掛けるが、時は既に遅かった。バブルが崩壊し、不良債権の急増を抑えることはできなかった。
代表取締役常務を最後に九四年山形の荘内銀行に転出し、頭取となる。預金量は富士の百分の一。
「メガバンクは高い収益を求め世界のどこへでも行く。地銀は地域が廃れれば行き詰まる。地域に役立つのは本当にやりがいがある。金融の倫理もそこに生まれる」
市場主義万能の時代に企業のモラルを求める金井と町田。そこに同志会時代に培われた志が息づいている。(文中敬称略)
写真 上 「経営者には宗教的素養が必要」と語る金井さん=千代田区内で
下 メガバンクから地銀に転じた荘内銀行の町田さん=同区内で
文・清水美和、写真・上 中西洋子 下・河口貞史(いずれもカラー写真)

金井先輩、町田先輩とも、記事取材時にはご存命でしたが、金井務先輩は、、2013年3月19日に、町田睿(さとる)先輩は、2018年1月30日に召天されておられます。

 

人、街に生きる 東大学生寮・同志会⑤

 「感話」に込める思い

(東京新聞夕刊一面 平成十九年三月十九日)(東京新聞より許可取得済)
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東京大学のキリスト教学生寮「同志会」では毎週、金曜の夜、OBも参加する定例の会合が聞かれる。チャペルで賛美歌を歌い、祈りをささげた後、しばらく沈黙が続く。法学部四年のM(二一)が突然、立ち上がり話し始めた。
「就職する友人が面接ですべてをさらけ出し、内定を獲得した体験を聞いた。会社で一生懸命働きたいという彼に、大学院に進学する自分にはないものを感じた」
同志会では「感話」と呼ばれる。寮生たちが立ち上がって自分の感じたことを語る。内容は日常のとりとめのないことも多い。時にはだれも語らず、沈黙が続くこともある。
「百年以上、同じやり方で寮が存続してきたのは奇跡だ」。毎週、金曜会に出席する理事長の国際基督教大学教授、北原和夫(六〇)は語る。北原自身、勤務先から一時間以上かけて会に出席し、率直に気持ちを語ることが週末の区切りになっているという。
「週休二日制でもない時代に、金曜夜の会合を考え出した先輩たちの先見性には感心する」
物理学を専攻する彼がキリスト教にひかれるのは「自然がわれわれが考えているより複雑だから」という。「物理学者は要素が分かれば全体が分かることを理想としているが、実際にはそうでないことが多い。すべて分かれば信仰には結びつかなかったろう」
金曜会には二〇〇二年に卒寮したOBの高山敏充(三一)も姿を見せた。バイオ技術の研究所を辞め、新年度から特許庁に転職する。人生の転機に立ち、「同志会を離れてから価値が分かり、帰ってくる先輩たちの気持ちが分かつた」と「感話」で語った。
H(三三)は京大を卒業後、東大大学院で中国の宗教政策を研究する。他の寮生に比べて年長だが、「若い寮生たちが先輩を立ててやさしく対応してくれるので暮らしやすい」という。現在、寮生は十二人いるが洗礼を受けているのは二人で、多くはキリスト教徒とはいえない。
それでも、賛美歌やお祈りの後、互いの気持ちを率直に話し合う活動を続けていることについて、Hは「一種の象徴的行事を通してお互いがより親密になる効果があるのではないか」という。
現代の若者たちはお互いの気持ちを打ち明けたり、考えを述べたりすることを避ける傾向が強い。傷つけ合うことを恐れ、できるだけ軽い付き合いにとどめる。しかし、同志会の中では世代を超えて親しい人間関係が息づいている。
高畠靖(七九)は、一九五四年卒寮後、日本聖公会の牧師になり、同志会の担当として五十年にわたって学生たちを見守ってきた。
「時代とともに学生の意識は変わったが、同志会の学生には共通点がある。ひたむきさ、それに、世のため人のため尽くす心だろう」
それこそが、創設者の阪井徳太郎や二代目理事長の石館守三が、自らの生き方を通じ後世に伝えようとしたものではなかったか。(文中敬称略、この項おわり)
写真 上 チャペルで学生たちに語りかける北原さん
下 「同志会学生にはひたむきさと尽くす心がある」と話す高畠さん
文・清水美和、写真・川北真三(いずれもカラー写真)

 

【私説・論説室から】 

 百年の時を超える志

(東京新聞夕刊五面 平成19年年4月4日)(東京新聞より許可取得済)

夕刊一面企画「人、街に生きる」の取材で、創立百五年を迎える東京大学のキリスト教学生寮「同志会」の卒寮者を取材した。

ビジネスの世界で日本を代表する企業の頂点を極めた人もいれば「サラリーマンの落第生」を自認する人も。知的障害者教育に一生をささげる求道者、物理学徒として物質のナゾに迫る学者もいる。

ただ、学生時代の短い期間を過ごした同志会で先輩から学んだ「世のため人のため」という理念を持ち続けているという点は共通していた。それが、かえって弱肉強食のビジネスや会社の出世競争で妨げになったとしても。

同志会を設立した阪井徳太郎氏は苦学の末、米ハーバード大学と聖公会の神学校を卒業。外相や首相秘書官を務め三井財閥の最高経営陣の一角を占めた。日露戦争では政府の秘密特使として米国で戦争終結を工作、ポーツマス条約の原案作りも主導した。

私財をなげうって支えた同志会では自らを誇る言葉はなく、信仰や人生を語るのみであった。彼の業績も卒寮生の磯野健太郎氏の求めによる聞き書きで明らかになった。

これは阪井の親友で、同じ信仰を背景に日本で最初の知的障害者福祉施設「滝乃川学園」を設立した石井亮一・筆子夫妻にも共通する。

障害者福祉の制度も助成もない時代、辛酸をなめて学園を育てた二人は自らを誇ることはなかった。その業績も最近、後継者の手でようやく光が当てられてきた。

それでも阪井氏や石井夫妻の志は受け継がれ多くの人々に深い影響を与えている。

「人生とは何か」。最近、忘れていた問いを思い起こす取材だった。 (清水美和)